音楽ブログをやっていると、たまにタイムラインに流れてくるあの単語。「パクリ」。

ある日突然、誰かが「このMVもう完全にあのアーティストのアレじゃん」と火を点け、コメント欄が荒れ、当事者が黙り、レーベルが謝罪文を出し、その2週間後にはみんな次の話題に移っている。これがもう、邦楽インディーからメジャーまで、何年もループしているのを見てきた。

で、何度も見ているうちに、ずっと気になっていることがある。

「MVのパクリ」と「曲のパクリ」、世間はあまりにも一緒くたに語りすぎなのだ。

両者はそもそも、誰がやっているのか、何が問題なのか、法的にどう判断されるのか、全部別物。今回はこの二つをちゃんと分けて整理しつつ、ついでに「じゃあオマージュってどこまでセーフなの?」というモヤモヤにも勝手に答えていく。

MVのパクリは、たいてい「バンドの仕業」じゃない

まず大前提として、ミュージックビデオを作るのはアーティスト本人ではない。映像ディレクターと制作会社が企画・演出を組み立て、バンドはそこに「出演する」立場。もちろん完成稿をチェックする責任はあるけれど、演出の骨格を発案しているのは別の人間だ。

この構造をはっきり示してくれた事件として、2013年の[Champagne]の『Forever Young』MV騒動を挙げない手はない(改名前の[Alexandros]、念のため)。

このMV、オーストラリアのインディーバンドClubfeetが同年1月に公開していた『Everything You Wanted』のMVと、構図も演出も技法も丸ごと酷似していた。具体的には、メンバーの静止画を切り抜き、それを街中の風景と合成しながらコマ撮り風に動かしていく技法。これがそっくり再現されていたわけで、当のClubfeet側のMV制作会社「Oh Yeah Wow」のDarcy Prendergast氏が、英語で名指しの怒りのコメントを投稿。「Champagne have blatantly ripped it off(完全に丸パクリされた)」と、もう取り繕う気のない一文でネットは一気に燃え上がった。

結局、所属レーベルRX-RECORDSが「映像制作を担当した弊社の企画、演出であり、メンバーが意図したものではございません」と公式に謝罪。MVは削除された。ここまではよくある話なんだけど、面白いのはバンド側のコメント。メンバー本人が「メンバーとしては出演もしており、更に完成後の映像チェックも行いましたので、関わっていたと自覚しております」とした上で、「正直今回の映像は『パクリだ!』と指摘されても得ない内容だったと思います」と認めている。逃げないところは偉い。

この一件、構造的にめちゃくちゃ示唆的だ。

「アーティストが自らパクろうとして指示した」のではなく、「制作側がアイデアを丸ごと借りてきて、バンドがそれをチェック工程で止められなかった」というパターン。MVのパクリ事件のほとんどは、たぶんこの形をしている。当然バンドにも責任の一端はあるけれど、悪意の所在は本人達じゃないということ。だから「あのバンドはパクリ常習犯!」みたいな個人攻撃に直行するのは、構造を見ていない議論になりがちだ。

ちなみに同MVは2017年発売のクリップ集『CLIPS』に収録されて、現在は普通に観られる状態に戻っている。一周回って堂々と再収録するメンタリティはちょっと好き。

2022年、坂本龍一『Aqua』とユ・ヒヨル『とても私的な夜』

一方、楽曲のメロディそのものが似ているとなると、これはもう完全に別ゲーム。当事者の責任が直接問われるし、判断基準も法律でガッチリ決められている。

ここ最近で「ガチで似ていた」案件として記憶に新しいのが、2022年6月の坂本龍一『Aqua』とユ・ヒヨル『とても私的な夜』の一件。

ユ・ヒヨル(柳熙烈)は韓国の作曲家・シンガーで、IUなどが所属する事務所Antennaの代表でもある人物。彼が「ユ・ヒヨルの生活音楽」と題して毎月1曲ピアノ小品をリリースしていくプロジェクトを進めていて、その2曲目として2022年6月に発表したのが『とても私的な夜(아주 사적인 밤)』だった。

6月14日、Instagramで一人の情報提供者から「これ、坂本龍一の『Aqua』に似てない?」と指摘される。『Aqua』は坂本龍一が1998年のアルバム『BTTB』に収録した、娘の坂本美雨に捧げたピアノ曲。聴き比べてみると、確かにメインテーマが酷似していた。

ここからの両者の対応が、現代的にめちゃくちゃ示唆的なのだ。

ユ・ヒヨル側は当日中に動いた。「曲のメインテーマが十分類似していることに同意することになりました」「長年にわたり最も影響を受け、尊敬しているミュージシャンなので、無意識のうちに私の記憶の中に残っていた同様の進行方式で曲を書くようになりました」と謝罪文を公開。盗作疑惑を即座に認めた。

これに対する坂本龍一側のコメントが、6月20日にIt Music Creative(坂本龍一の韓国プロジェクトサポート組織)経由で発表される。「音楽的な分析をする過程から見て、メロディとコード進行は盗作という論点には合致しないと判断しました」「ユ・ヒヨル氏の楽曲への敬意が見られた」「法的措置が必要なレベルであるとは考えられません」、と。

要するに当事者の片方が「似てます、申し訳ない」と認めても、もう片方が「いやそこまで言わなくていいよ」と引き受ければ、それで実質的な決着がついてしまう。「依拠性」「類似性」みたいな法的フレームワークを持ち出すまでもなく、両者の合意で完結する。これがミュージシャン同士の現実的な処理パターン。

坂本龍一はこのとき、もう一つ重要なことを言っている。「全ての創作物は、既存の芸術の影響を受けています。(責任の範囲内で)そこに自身の独創性を5〜10%ほど加味するとしたら、それは素晴らしく感謝すべきことです」というスタンス。

これがプロの感覚なのだろう。影響を受けるのは当然で、その上にどれだけ自分の何かを乗せられたかが本質、という考え方。ネットの「絶対パクってる!訴えろ!」という騒ぎとは、まるで別世界の対応に見える。

ちなみに坂本龍一はこの翌年(2023年)3月に逝去しているので、これは生前最後期の「パクリ案件」対応の一つになった。彼の音楽哲学そのものが滲み出たコメントとして、後から読み返すといっそう重みがある。

なぜミュージシャン同士の訴訟は少ないのか

ここが大事なんだけど、ミュージシャン本人同士で訴訟まで行く例は本当に少ない。

理由はいくつかある。

まず、プロの作曲家からすると「メロディなんて12音の組み合わせなんだから、ありふれた進行は似て当然」という感覚が普通にある。素人耳には「丸パクリ!」に聞こえても、楽曲分析的には「ありふれた表現で偶然似ているだけ」と判断されるケースが多い。

次に、当事者間ですでに水面下で話がついていて、外野だけが騒いでいるパターンも珍しくない。クレジット追加、印税分配、和解金、どれかで処理されて表に出ないだけ。

そして単純に、ヒマじゃない。本人達は次の曲を作るほうが大事なのだ。

ちなみに海外、特にアメリカは事情が違う。Robin Thickeの『Blurred Lines』がMarvin Gayeの『Got to Give It Up』に似ているとして遺族が訴え、約500万ドルの支払いが命じられた件は記憶に新しい。Ed Sheeranも何度も訴えられている。日本と比べて、訴訟ハードルがとんでもなく低い。逆に言えば、日本のミュージシャン同士は「パクられた!」と思っても、まず内輪で処理する文化が強い。

オマージュとパクリの線引きは「リスペクトが見えるか」だけ

じゃあ、似ていることが必ずしも悪じゃないとしたら、何が問題で何が問題じゃないのか。

ここで持ち出されるのが「オマージュ」「パロディ」「インスパイア」という便利な言葉たち。ただ、これも結構ふわっとしているので、自分なりに整理するとこうなる。

オマージュは、元ネタへの敬意が前提で、しかも「ニヤッとする人にだけ伝わればいい」という設計思想。元ネタを隠さないし、なんなら「分かる人には分かるよね」というメッセージごと込みで作られている。

パロディは、皮肉や風刺のために模倣する手法。元ネタが知られていないと成立しない。

インスパイアは、影響を受けて発想を借りるけれど、表現としては自分のものに置き換えるところまでセット。

そしてパクリは、これらの「敬意」「メッセージ」「置き換え」のどれも欠落していて、ただ「いいアイデアだから使った」状態。要するに無断借用に近い。

世界中のMV作家、たとえばスパイク・ジョーンズの『The Pharcyde – Drop』(1996)の逆再生ワンテイク撮影や、ミシェル・ゴンドリーのケミカル・ブラザーズ『Star Guitar』(2003)の風景と楽曲のシンクロ表現は、後の作家たちに膨大な影響を与えている。これらの技法を取り入れたMVは数えきれないほどあるけれど、ちゃんと自分の文脈に置き換えているものは「インスパイア」として受け入れられている。問題になるのは、技法をそのまま借りた上に、置き換えの工夫がまったく見えないとき。

近年のJ-indieシーンを見渡しても、betcover!!のクラシカルな照明設計、カネコアヤノの自然光と人物の置き方、君島大空の幾何学的なロケーション選び、cephaloの帰り道感のある画作りなど、明らかに過去のMV作家たちの影響を吸収しつつも、ちゃんと自分の文脈に翻訳されている作品が多い。kurayamisakaみたいな新興バンドのMVも、海外のシューゲイザー/ドリームポップMVの語彙を借りながら、日本のローカリティで上書きしている。これらを「パクリだ!」と言う人は誰もいない。

つまり、線引きの基準は「リスペクトと置き換えが見えるかどうか」しかない。法律ではなくマナーの話。

騒ぎたいのは外野だけ、という身も蓋もない話

ここまで書いてきて、結局のところ「パクリ騒動」のほとんどは、本人達同士で完結している話、もしくはマナー違反レベルの話、もしくは法律で争うほどではない話、のどれかでしかない。

それでもファンや野次馬は「許せん!」「擁護派は信者!」「パクリ常習犯!」と燃え上がる。なぜかというと、たぶん「正義」が分かりやすく振りかざせるトピックだから。「パクリは悪」というのは誰も否定できないので、安全圏から殴れる。

でも、本当に音楽が好きならまず、

MVのパクリと曲のパクリを区別して語る。制作会社主導なのかアーティスト主導なのか考える。依拠性と類似性のどっちを問題にしているのか自覚する。

くらいはやってから騒いだ方が、議論として有意義だと思う。

「ありふれた表現で似て当然」みたいなプロの感覚と、「絶対パクってる!」っていう素人の感覚の間には、結構な距離がある。距離があること自体は仕方ないとして、せめてその距離を見ようとはしたい。

そうしないと、いつまで経っても「燃やしては忘れる」サイクルが終わらないので。

ではまた、次の記事で。