「アンコール」という茶番、本当にやる必要あるか問題
ライブの本編が終わる。照明が落ちる。バンドが手を振ってステージ袖にはける。客席から沸き起こる「アンコール!」の手拍子。数分後、何食わぬ顔でメンバーが戻ってくる。「まだ帰したくないなあ!」みたいなことを言う。客は「まさか戻ってきてくれるとは!」という顔で沸く。
この一連の流れ、冷静に見ると相当に奇妙じゃないか。
戻ってくることは全員わかっている。演者もわかっている。客もわかっている。にもかかわらず、一度「終わったフリ」をして、「呼ばれたから戻ってきたフリ」をする。この壮大な茶番を、僕らは何十年も律儀に続けている。今日はこの「アンコール」という儀式について、遠慮なく書いていく。先に言っておくが、僕はアンコールが嫌いなわけじゃない。嫌いなのは、思考停止でそれをやる空気の方だ。
そもそもアンコールは「おまけ」だった
アンコールという言葉はフランス語の「encore(もう一度)」に由来する。ただ面白いことに、この語を再演の要求に使うのは主に英語圏で、本家フランスではむしろラテン語由来の「bis(ビス)」が使われることが多いという。語源の国で使われていない、という時点でもう捻れている。
起源には諸説あって、古代ローマの円形劇場で観客が気に入った場面を「もう一回!」とねだったのが始まりだとも、17世紀イタリアのオペラで観客が自然に叫んだのがきっかけだとも言われる。どの説を取るにせよ、共通しているのは一点だ。アンコールは元々、予定されたプログラムではなかった。本編に満足しきれない、いや満足しすぎた観客が、我慢できずに「もっと聴かせろ」と要求する。その熱に演者が応える。これがアンコールの原型だ。
つまり本来のアンコールは、完全に不確定なものだった。起こるかもしれないし、起こらないかもしれない。客の熱量次第。だからこそ、それに応えてもらえたときの喜びは本物だった。ここを押さえておかないと、話が始まらない。
いつから「やって当たり前」になったのか
ところが現代の、特に日本のライブシーンでは、アンコールは完全に「やるもの」として組み込まれている。セットリストの一番下に、当たり前のように「En.(曲名)」と書かれている。演者は最初からアンコールまで含めて構成を練り、客は最初からアンコールがあることを前提に手拍子を打つ。
不確定だったはずのものが、いつの間にか確定した段取りになった。これはもう、原義から完全に逸脱している。「もう一度聴きたい」という衝動の発露だったものが、「ここで一回はけて、ここで戻る」という演劇の脚本に成り下がった。サプライズがルーティンになった瞬間、そこにあった魔法は消える。
このマッチポンプ構造への違和感は、僕だけのものじゃない。あるライブ好きは自身のブログで、確実に戻ってくるつもりなのに終わった感を出す演者と、戻ってくると分かっていて呼ぶ客の共犯関係を「マルチの講座に参加したときみたいな気持ち悪さがある」と書いていた。言い方は辛辣だが、構造を的確に突いている。全員が知っている嘘を、全員で成立させる。確かに、どこか宗教儀式めいた不気味さがある。
ミュージシャン自身も、実は苦言を呈している
面白いのは、この違和感を最も鋭く言語化しているのが、ほかならぬ演者側だという点だ。
岡崎体育は雑誌の連載コラムで、本来のアンコールは公演後に鳴り止まない歓声へ演者が応える形で自然発生するものだと述べたうえで、現在の日本のライブでは「やらなあかん感じ」になっている現状を「ヤラセもいいところ」と切り捨てた。そのうえで「このシステム、始めたの誰なん?」と問いかけている。痛快だ。しかも彼はその形骸化へのアンチテーゼとして、ライブ冒頭で先にアンコールの曲数を発表してしまう、という荒技を自分のパフォーマンスに取り入れている。批判するだけでなく、自分なりの解を提示しているのが良い。
T.M.Revolutionの西川貴教も、アンコールを「客席から求められ、それにこたえる心と心の呼応」と定義したうえで、アンコールで戻るとスマホを触ったり着席して談笑している客がいる状況に疑問を呈したことがある。求めていないのに応える側だけが律儀、というねじれへの違和感だ。
さらに重量級の意見もある。ホールコンサート回数日本一とも言われるさだまさしは、アンコールは客席が要求するものであって「呼ばれないのに出ていく必要はない」と明言している。もし出ていく前に拍手が鳴り止んだら、そのまま帰る、と。逆に鳴り止まなければ何度でも出る。この潔さ。アンコールを「サービス」と位置づけつつ、その発動条件はあくまで客の本気の要求にある、という筋の通し方だ。ベテランほど、この原則に忠実なのは示唆的だと思う。
「アンコールをしない」という選択の格好よさ
近年は、そもそもアンコールを設けないアーティストも増えてきた。海外では会場入口に「本日アンコールはございません」と貼り紙をするケースもあるという。
これには明確な思想がある。ライブを単なる曲の披露の場ではなく、一つの物語、完結した作品として設計する。感動的なラストで本編を締めたあと、また出てきて別の曲をやることは、その余韻をむしろ壊しかねない。だから、あえてやらない。「終わりの美学」を客に体験してほしい、という意志だ。
これは筋が通っている。最後の一曲で完璧に着地を決めたなら、そこで幕を引くのが一番美しい。蛇足のアンコールで台無しにするくらいなら、やらない方がいい。アンコール前提で本編のラストの重みが分散してしまう、という弊害を考えれば、なおさらだ。
考えてもみてほしい。本編最後の曲を、みんな「どうせこの後アンコールあるし」という気持ちで聴いていないか。あの一曲が持つべきだった「これで終わりかもしれない」という緊張感を、予定調和のアンコールが奪っている。これは損失だ。
で、結局やる必要はあるのか
ここまで散々こき下ろしてきたが、僕はアンコール全廃を主張したいわけじゃない。
本当に良いアンコールというものは、確かに存在する。予定されていなかったのに、客の熱が本気で演者を引き戻すあの瞬間。あるいは、演者が「今日は特別だ」と感じて、用意していなかった一曲を衝動的にやってしまう瞬間。あれは何物にも代えがたい。アンコールが滅多に起きないからこそ、起きたときの感動が跳ね上がる。希少性が価値を生む、という単純な話だ。
問題は、アンコールそのものではない。それが思考停止の段取りになっていることだ。全員が「やるものだから」という理由だけで、中身のない儀式を反復している状態。これが茶番なのだ。
だから僕の結論はアンコールをやるなら、やる理由を持て。予定調和の出入りをするくらいなら、本編で全部出し切って堂々と終われ。逆に、本気の熱が客席から来たなら、脚本になんて縛られず何度でも応えろ。段取りを捨てて、その日の空気で決めろ。アンコールの是非は、やるかやらないかじゃない。そこに衝動があるかどうかだ。
次にライブへ行ったとき、本編ラストの一曲を「これで終わりかもしれない」と思って聴いてみてほしい。その一曲の重さが、たぶん変わる。そして万が一アンコールが起きなかったとしても、それはそれで完璧な夜だったと思えるはず。茶番を茶番でなくすのは、演者だけの仕事じゃない。聴く側の心構えでもある。
ではまた。

