バンドの新譜のジャケット。あるいは、新しいアーティスト写真。そういうものを眺めていて、ふと気づくことがある。

なぜ、この人たちは全員、揃ってあらぬ方向を見ているのか。なぜ、誰ひとりカメラ目線で笑っていないのか。ある者はうつむき、ある者は口元に手を当て、ある者は虚空を見つめ、ある者は横を向いている。まるで「カメラを正面から見たら負け」という謎のルールでもあるかのよう。

この、アー写・ジャケ写における「全員そっぽ向きがち」「全員無表情で物憂げになりがち」現象。今日はこの不思議な法則の正体を、写真撮影の現場の論理から解き明かしてみたい。なぜミュージシャンは、揃ってカメラから目をそらすのか。そこには、わりと身も蓋もない、しかし納得のいく理由が隠れている。

大前提——アー写は「集合写真」になってはいけない

まず、すべての法則の根っこにある大原則を押さえておこう。それは、「アー写は、ただの集合写真であってはならない」という鉄の掟だ。

アー写とは何か。複数の解説が一致して指摘するのは、それが「アーティストの個性や世界観を視覚的に伝える」ためのものだ、という点だ。OPSという撮影スタジオの記事は、アー写は単なるプロフィール写真とは異なり、「どんな音楽をやっているのか」を瞬時に伝えるため、おしゃれで印象的な仕上がりが求められる、と説明している。つまりアー写は、顔を記録するための写真ではなく、バンドの「雰囲気」や「世界観」を売るための、一種の作品なのだ。

ここで、全員がカメラ目線でにっこり笑った写真を想像してみてほしい。それは何に見えるか。そう、「集合写真」。卒業アルバムや、親戚の集まりで撮るアレ。アー写研究を試みたMoriki Izumi氏のnoteは、この核心をずばり突いている。全員が正面を向き、表情がはっきりわかる写真は、「集合写真」「家族写真」のような日常感が出てしまい、アーティスト感が薄くなる気がしてしまう、と。

彼らがカメラ目線を避け、そっぽを向き、うつむくのは、何よりもまず「日常感」を消すため。ミュージシャンは、日常の人であってはならない。非日常の、ちょっと手の届かない存在でなければならない。だからこそ、僕らが日常で撮るような「みんなで笑ってハイチーズ」とは、正反対の方向へ全力で逃げる必要がある。下を向き、口元を隠し、虚空を見つめる。それは「私たちは、あなたの日常の住人ではありません」という、無言の宣言なのである。

法則その1——そっぽを向くと「クリエイティブに見える」

では、具体的になぜ「そっぽ向き」「うつむき」が選ばれるのか。Moriki Izumi氏のnoteは、その理由を実に的確に分析している。

第一の理由は、シンプルに「クリエイティブに見えるから」。同記事いわく、目線や顔の向きがバラバラだと、「なんか雰囲気がある」「なんかカッコいい」という、あの”なんかいい”感が出る。そしてそれが、クリエイティブに見えるという。

身も蓋もないが、これは真実だと思う。正面を向いた明快な写真は、情報としては分かりやすいが、想像の余地がない。一方、目線を外し、表情を曖昧にすると、見る側は「この人たちは何を考えているんだろう」「どんな音楽なんだろう」と、勝手に想像を巡らせ始める。その「わからなさ」が、深みや芸術性の錯覚を生む。口元を手で隠すのも同じ理屈だ。顔の情報を意図的に減らすことで、ミステリアスな余白が生まれる。表情を全部見せてしまうより、隠したほうが「考えていそう」に見える。

法則その2——「意味ありげ」に見えるから

第二の理由は、「意味ありげに見えるから」。

これもMoriki Izumi氏の指摘だが、目線や向きが散らばっていると、メンバーそれぞれの個性を表現していたり、あるいはグループの現在・未来・将来性・可能性といった、何か深い意味を示唆しているように見えるという。

考えてみれば、巧妙な仕掛けだ。一人が上を見上げ、一人が下を向き、一人が遠くを見ている。それだけで、見る側は「このバラバラな視線には、何か意図があるに違いない」と深読みを始める。実際には特に深い意味はなくても、視線が散らばっているという事実だけで、勝手に物語性が立ち上がってくる。SCRAP MAGAZINEの記事も、アー写を作品として作り込んだ例として、「全員白のファッション、そして表情を消し、統一したイメージを作る」手法を紹介している。表情を「消す」。これもまた、余計な情報を削ぎ落とすことで、意味ありげな統一感を演出する技法なのだ。

法則その3——フライヤーで「便利だから」という現実

ここから、ぐっと現実的な理由になる。第三の理由は、なんと「便利だから」だ。

これは見落とされがちだが、極めて重要な事情である。複数のアー写解説が指摘するように、バンドはフェスや対バンイベントで、複数のバンドのアー写が一枚のフライヤーやポスターにまとめて載せられることが多い。そのとき、自分たちのアー写が、その他大勢に埋もれてはいけない。

Moriki Izumi氏は、目線がバラバラな写真の利点として、フライヤーやポスターの「どの位置でも無難に配置できて便利だから」と挙げている。全員が一方向をビシッと見ている写真だと、フライヤーに配置したときに、視線の向きと余白のバランスが悪くなることがある。だが、視線が散っていれば、上下左右どこに配置されても、それなりに収まりがいい。さらに、アー写には文字を入れるための「余白」が必要で、複数の撮影ガイドが「余白のある写真を撮っておけ」と口を揃える。そっぽを向いた構図は、自然と視線の先に余白を作りやすく、バンド名やライブ情報を書き込むスペースを確保しやすい、という実利もあるのだ。芸術性だと思っていたものが、実はレイアウトの都合だった——というのは、なんとも味わい深い裏側である。

法則その4——身も蓋もない真実「撮影が早く終わるから」

そして第四の理由が、最高に身も蓋もなくて、最高に納得できる。「撮影が早く終わるから」だ。

これもMoriki Izumi氏の慧眼だが、説明を読むと膝を打つ。全員が正面を向いてカメラ目線で撮る集合写真スタイルだと、「あ、ひとり目瞑ってる!」という事故が起きる。誰か一人が瞬きしただけで、その一枚はNGになる。メンバーが多ければ多いほど、全員が完璧な瞬間を揃えるのは難しくなる。

ところが、目線や顔の向きがバラバラでいいなら、話はまったく変わる。誰かが下を向いていても、横を向いていても、目を閉じていても、「これはこれでいい感じ」になり、なんとかOKが出てしまう。つまり、そっぽ向きスタイルは、撮影の歩留まりが圧倒的にいいのだ。全員のベストな表情が奇跡的に揃う一枚を粘り強く待つより、各自が適当に視線を外している写真のほうが、はるかに早く「採用」にたどり着ける。アーティスト感の演出と、撮影効率。この二つが、見事に両立してしまっているのである。

ただし——それが「正解」とは限らない場面もある

ここまで「そっぽ向き・無表情」の合理性を説明してきたが、公平に言えば、これが常に正解なわけではない。

Moriki Izumi氏自身が、こう補足している。顔を見合わせていたり、正面を向いていたり、笑顔だったりする写真は、見る人にとても親しみを感じさせる、と。そして、子ども向け番組の「歌のお兄さん・お姉さん」がジャケ写でそっぽを向いていたら、違和感しかない、と。その通りだ。ミュージックバニーの記事も、ポップなグループなら「明るく親しみやすい雰囲気」を、ロックバンドなら「クールな表情やダークなトーン」を、とジャンルによる使い分けを勧めている。

つまり、「そっぽ向き・無表情」は、あくまで「クールでアーティスティックに見せたい」音楽性の場合に有効な戦略にすぎない。親しみやすさが武器のアーティストが同じことをやれば、ただの「とっつきにくい人たち」になってしまう。要は、イメージに合った表情を選ぶことが本質であって、無表情そのものが偉いわけではない。たまたま、世に出るバンドの多くが「クールに見られたい」と思っているから、結果として「全員そっぽ向き」のアー写が量産されている、というだけの話なのだ。

まとめ——あの物憂げな視線の、意外と現実的な正体

整理しよう。ジャケ写・アー写でメンバー全員が下を向いたり口元を隠したりする法則の背景には、四つの理由がある。第一に、カメラ目線の笑顔は「集合写真・家族写真」の日常感を生むため、それを避けてアーティスト感を出したいから。第二に、視線を外すと想像の余地が生まれ「クリエイティブ」かつ「意味ありげ」に見えるから。第三に、フェスのフライヤーでどこに配置しても収まりがよく、文字を入れる余白も作りやすいという実利があるから。そして第四に、全員の表情が揃わなくてもOKが出るので、単純に撮影が早く終わるから。

こうして見ると、あの物憂げで芸術的な視線の正体は、半分は世界観の演出であり、もう半分は「集合写真っぽくなりたくない」という見栄と、「撮影を早く終わらせたい」「フライヤーで使いやすくしたい」という、極めて現実的な都合だったわけだ。なんだか、急に親近感が湧いてこないだろうか。

次にバンドのアー写を見るときは、ぜひ意地悪な目で観察してみてほしい。この人たちは本当に深いことを考えてそっぽを向いているのか、それとも単に「集合写真に見えたくなかった」だけなのか。あるいは、撮影の最後に「もうこれでいいよね、目線バラバラで」とカメラマンが言った結果なのか。真相は、たぶん本人たちにしかわからない。でも、その物憂げな表情の裏にある現実的な事情を想像すると、アー写を眺める時間が、少しだけ楽しくなるはずだ。

ではまた。