Dragon Ashが起こした革命と、その功績を今こそ数え直す
日本の音楽史上、最も有名なラップの一節は何か。この問いへの答えは、世代によらずほぼ一つに収束するはずだ。1999年、「Grateful Days」の冒頭でZeebraが放った、東京生まれでヒップホップ育ちだと高らかに名乗るあのパンチライン。四半世紀が経った今もパロディされ、擦られ、引用され続けている。
だが、あのフレーズが乗っていた曲を作ったバンドの功績を、正面から数え直す機会は意外と少ない。Dragon Ash。日本のロックとヒップホップの壁を素手でぶち壊し、その代償まで一身に引き受けた男たち。今日は彼らが起こした革命を、順番に検分していく。
17歳の少年と、年の離れたベーシスト
Dragon Ashの始まりは1996年、当時17歳だったKjこと降谷建志(Vo/Gt)が、中高の同級生である桜井誠(Dr)、そして年の離れたベーシストIKUZONE(馬場育三)と組んだ3人組だった。ちなみにKjの父は俳優の古谷一行。芸能一家の息子が、パンクとハードコアを鳴らすバンドでメジャーシーンに殴り込んだ。
初期の彼らはパンク・ハードコアを軸にしたバンドだった。だが、この少年の耳は貪欲だった。ヒップホップ、レゲエ、エレクトロニカ。90年代の洋楽のエッセンスを次々と吸い込み、自分たちの音に変換していく。そしてDJ BOTSが正式加入した4人体制で、日本の音楽史に残る爆弾を投下する。
1999年、『Viva La Revolution』という事件
1999年7月23日、ビクターエンタテインメント / HAPPY HOUSEからリリースされた3rdアルバム『Viva La Revolution』。タイトルの意味は「革命万歳」。ジャケットには、ドラクロワの「民衆を導く自由の女神」を模した絵。自分たちのアルバムに革命を宣言し、革命画を掲げる。19〜20歳そこそこの若造がやることじゃない。だが、彼らはやった。そして中身が、その大言壮語に追いついていた。
アルバムは前半にヒップホップ色の強い楽曲を、後半にロック色の強い楽曲を配置した構成で、シングル「Let yourself go, Let myself go」「I LOVE HIP HOP」「Grateful Days」のヒットを追い風に約180万枚を売り上げ、バンド初のミリオンセラーとなった。HMVのレビューが「文字通り日本のミュージック・シーンに音楽革命を起こした1枚」と書いた通り、これは売上の記録である以上に、地図の書き換えだった。
何が革命だったのか。ロックの客とヒップホップの客が、同じ曲で踊れるようになったことだ。それまでの日本で、この二つのシーンは別の国だった。ライブハウスとクラブ、バンドマンとラッパー、互いに交わらない言語で音楽をやっていた。Dragon Ashはその国境線上に堂々と立ち、両方の言葉で歌った。ミクスチャーロックという概念を、日本のお茶の間レベルまで届けたバンドは、彼らが最初だ。
「Grateful Days」がチャートで起こしたこと
革命の象徴が、1999年5月1日リリースの5thシングル「Grateful Days」だ。ZeebraとACOをゲストに迎えたこの曲は、発売週のオリコンチャートでL’Arc〜en〜Cielの「HEAVEN’S DRIVE」と宇多田ヒカルの「First Love」に阻まれ初登場3位。ところが翌週、その2作の週間売上を上回って順位を上げるという離れ業をやってのける。
考えてみてほしい。1999年である。ラルクと宇多田が全盛の時代である。そのど真ん中で、ラッパーをフィーチャーした曲がチャートを駆け上がった。この曲がヒップホップの楽曲として果たした役割は計り知れず、アングラの文化だった日本語ラップをメジャーへ押し上げた偉大な作品として語り継がれている。事実、この直後の時代にRIP SLYMEやKICK THE CAN CREWといったヒップホップグループが次々とオリコンを賑わすようになる。Dragon Ashが蹴破った扉から、シーンごとメジャーに雪崩れ込んだのだ。
トラックにはスマッシング・パンプキンズ「Today」のギターフレーズがサンプリングされていた。ロックの名曲を土台に、日本語ラップが乗り、バンドが鳴らす。この一曲の中に、彼らの革命のすべてが詰まっている。
革命の税金、「公開処刑」
だが、革命には必ず代償がつく。国境を壊した者は、両方の国から撃たれる。
2002年、Zeebraが所属するキングギドラの楽曲「公開処刑」で、ZeebraはKjを名指しし、模倣者だと断じる苛烈なディスを放った。かつて「Grateful Days」で共演した相手からの、公開の絶縁状だった。ヒップホップにおいてディスはアンサーを返して成立するビーフという文化だが、Kjはアンサーを返さなかった。尊敬する先輩からのディスに、謝罪の姿勢を示したのだ。
以降、Dragon Ashの楽曲からヒップホップ色は薄れ、彼らはラテンやロックへと音楽性を大きく旋回させていく。そして最大のヒット曲だったはずの「Grateful Days」は、ベストアルバムに収録されず、配信からも外され、今もCDでしか聴けない封印曲となっている。日本語ラップをメジャーに押し上げた張本人の代表曲が、サブスク時代に聴けない。これほど皮肉な話があるだろうか。
この事件の評価は今も割れている。ヒップホップの流儀としては筋が通っていたという声もあれば、日本のヒップホップの発展を遅らせた愚行だったという声もある。僕の立場ははっきりしている。どちらの言い分にも理はあるが、確かなのは一つ。撃たれるほどの影響力を持っていたのはDragon Ashの方だった、ということだ。誰も気にしない相手を、名指しでディスったりはしない。
それでも、止まらなかった
革命家の真価は、革命の後に問われる。Dragon Ashのすごみは、むしろここからだ。
ヒップホップを封印した後も、彼らは止まらなかった。2002年サッカーW杯の熱気の中で「Fantasista」を放ち、「Life goes on」はJ-PHONEの「写メール」CMソングとして世代を超えて届いた。ラテンへの傾倒はキャリアの停滞ではなく新章で、その音楽性の旋回力こそが、彼らがただのブームで終わらなかった理由だ。ロックフェス文化との併走も特筆に値する。ROCK IN JAPAN FESTIVALには立ち上げ以来出演を続け、大トリを務めることもある、フェスシーンの背骨のようなバンドであり続けた。
そして2012年、バンドは最大の喪失に見舞われる。結成時からのベーシスト、IKUZONEの急死だ。17歳のKjを支えた年長者であり、バンドの土台だった男。解散が頭をよぎったというが、彼らは継続を選んだ。以降、ライブではサポートベーシストを迎えながら、Dragon AshはDragon Ashであり続けている。革命を起こし、撃たれ、仲間を失い、それでも30年近くステージに立ち続ける。この継続それ自体が、もはや功績だ。
功績を数え直す
最後に、Dragon Ashの功績を並べ直しておく。
ロックとヒップホップの国境を破壊し、ミクスチャーロックという概念を日本に定着させたこと。「Grateful Days」で日本語ラップをお茶の間に届け、後続のヒップホップ勢がチャートへ進出する道を舗装したこと。『Viva La Revolution』という、90年代最後に投下された革命の記録を残したこと。ジャンルを旋回しながらフェス文化と併走し、シーンの水先案内人であり続けたこと。そして、メンバーの死すら乗り越えて、鳴らし続けていること。
売上の数字は、いつか色褪せる。だが「道を作った」という事実は、その道を歩く者がいる限り消えない。今、ラップとバンドサウンドを当たり前のように行き来する若いアーティストたちの足元には、四半世紀前にDragon Ashが舗装した道路が敷かれている。本人たちがそれを誇るかどうかは別として、僕らリスナーは覚えておくべきだ。革命は、確かに起きた。そして革命家は、まだステージにいる。
ではまた。

