19歳で「メシ喰うな」と歌った男は、19年後に芥川賞を獲った ─ INUと町田町蔵の、まるでパンクらしくない武勇伝
日本のパンクの武勇伝と聞いて、たいていの人が思い浮かべるものがある。
ステージから客席に飛び込む。豚の内臓を投げる。全裸になる。会場を出禁になる。条例を作られる。楽器を壊す。血が出る。警察が来る。
そういう話は確かに面白い。実際、同時代にはそれをやり切った人たちがいた。
だが町田町蔵の武勇伝は、その系統ではない。
アルバムを1枚だけ出して、3か月で解散した。それから20年近く、バンドを組んでは潰し、組んでは潰しを繰り返しながら、肉体労働のアルバイトと映画出演で食いつないだ。そして1996年に小説を書き、2000年に芥川賞を獲った。現在は武蔵野大学文学部の教授である。
パンクバンドのボーカリストの経歴として、これほど笑える軌跡もそうそうない。
そして僕が言いたいのはここからだ。この経路は「パンクをやめて文学に転向した」という話ではまったくない。1981年の時点で、この人はすでに言葉で殴っていた。ただ当時、その凶器の正体を誰もうまく言語化できなかっただけだ。
今日はINUと町田町蔵の話を書く。武勇伝も書くが、いちばんの武勇伝は言葉のほうにある、という話として書く。
まず、事実を積み上げる
町田康、旧芸名は町田町蔵。1962年1月15日生まれ、大阪府堺市出身。
中学時代からロックに興味を持ち、大阪府立今宮高等学校在学中の1977年、セックス・ピストルズに触発されてバンドを結成する。そのバンド名が「腐れおめこ」である。
高校生が、である。
このバンド名を出せる感覚が、すでに全部を説明している。関西のパンクシーンからはウルトラビデのような名前のバンドが次々に出てきていて、東京とは完全に一線を画したセンスが全開だった。品位という概念を最初から相手にしていない。
1979年、ギターの林直人の加入を機に、バンドはINUへと発展する。
そして、この名前の由来が「犬が好きだから」である。腐れおめこからINUへ。振り幅がおかしい。
結成時のメンバーは、ボーカルの町田町蔵、ギターの林直人、ベースの田中”オショウ”敬介、ドラムスの西森武史。ただし町田以外のメンバーは一貫して安定せず、何度も入れ替わっている。
そして1981年3月1日、ジャパンレコーズから1stアルバム『メシ喰うな!』でメジャーデビュー。規格品番JAL-4。プロデュースは鳥井ガク。
このリリース時点のメンバーは、町田町蔵(Vo)、北田昌宏(Gt/Perc)、西川成子(Ba)、東浦真一(Dr/Perc)という編成に変わっていた。結成時の3人は、誰も残っていない。
そして、このアルバムの3か月後にINUは解散する。
「当時18歳」という伝説を、ちょっと訂正しておく
この作品について語られるとき、ほぼ必ず「町田は当時18歳だった」という一文が付いてくる。
厳密には違う。
町田康の生年月日は1962年1月15日である。アルバムの発売日は1981年3月1日。つまりリリース時点で、彼は19歳になって1か月半が経っている。
録音自体は前年から行われていたはずなので、制作期間の大半を18歳で過ごしたという意味では間違ってはいない。だが「18歳が出したアルバム」という言い方は、少しだけ盛られている。
こういう細かい訂正を入れるのは、伝説に水を差したいからではない。逆だ。
19歳でも十分に異常なのだ。1歳サバを読む必要がないほど、この作品は若すぎる人間が作ったものとして常軌を逸している。
全11曲、そして作曲者の分散
『メシ喰うな!』の収録曲を並べておく。全11曲、全編曲はINU名義、全曲の作詞は町田町蔵である。
A面
- フェイド・アウト(作曲:西川成子)
- つるつるの壺(作曲:北田昌宏)
- おっさんとおばはん(作曲:西川成子)
- ダムダム弾(作曲:町田町蔵)
- 夢の中へ(作曲:町田町蔵)
- メシ喰うな!(作曲:町田町蔵)
B面
- ライト・サイダーB(スカッと地獄)(作曲:北田昌宏)
- インロウタキン(作曲:北田昌宏)
- 305(作曲:北田昌宏)
- メリーゴーラウンド(作曲:町田町蔵)
- 気い狂て(作曲:北田昌宏)
ここで注目してほしいのが、作曲クレジットの分散だ。
北田昌宏が5曲、町田町蔵が4曲、ベースの西川成子が2曲。
町田町蔵のバンドとして語られがちなINUだが、作曲面での主導権は明確にギターの北田にある。しかもB面5曲のうち4曲が北田の曲で、B面はほぼ北田のパートと言っていい。
そして、この北田昌宏という人物が、この記事でぜひ書いておきたいもう一人の主役だ。
北田昌宏という異物
北田は元・変身キリンのギタリストで、後に一時期ザ・スターリンにも在籍している。
そして彼にまつわる、こういう逸話がある。音楽学校では学費免除の特待生だった。INUの初練習の日、事前にカセットテープで渡されていたINUの曲を、すべて譜面に起こしてきた。メンバー全員が驚愕した、と。
この話の出典は個人によるブログ記事なので、一次資料として断定はできない。ただ、この逸話が本当だとすると、INUというバンドの構造が一気に見えてくる。
ゴム草履のパンク兄ちゃんが、譜面を書ける天才ギタリストに出会った。
実際、このアルバムを聴いたリスナーの評は、ほぼ例外なくこの点に触れている。パンクと呼ぶには演奏が上手すぎる。ロカビリー調のギターが鳴り、ポップな曲があり、かと思えば異様に重いタイトル曲がある。音楽的にはすでにポストパンクの領域にはみ出している。
海外の同時期のニューウェイヴ勢と比べても、テクニックと構成力で見劣りしない。それどころか、その後のP.I.Lやトーキング・ヘッズに接続していくような越境性が、1981年の日本のバンドにすでにある。
町田町蔵の存在感があまりに強いせいで、この事実はしばしば見落とされる。だがINUを「パンクバンド」の棚に置いた瞬間、この盤の半分は見えなくなる。
そして、言葉の話
ここが本題だ。
INUを語るとき、演奏の話、パンクの話、町田の風貌の話が先に来る。だがこのバンドの本当の武器は、最初から最後まで言葉だった。
代表曲であるタイトル曲は、前身バンドである腐れおめこ時代からのレパートリーである。つまり高校生の頃に書かれた曲だ。
歌詞をここで引用することはしない。だが方向性だけ書いておくと、あの曲でやっているのは、自分の存在を消してくれという要求と、中産階級の子供たちへの敵意と、飯を食うという行為そのものへの侮蔑を、同じ数行の中で衝突させることだ。
自分を消せと言いながら、他人を殴る。19歳の書くものとして、構造が複雑すぎる。
当時のリスナーがこれを「文学的」と呼んだかというと、たぶん呼んでいない。ぶっ飛んでるな、で処理された。それが正しい受け取り方だったとも思う。
ただ、20年後に芥川賞を獲る人間の言語感覚が、この時点ですでに完成の方向を向いていたのは間違いない。怒り、脅し、茶化し、祈る。その表情の切り替えが1曲の中で何度も起きる。
これは「パンクの怒り」ではない。怒りは単色だ。この人の言葉は最初から多色で、しかも色同士が喧嘩している。
武勇伝の本体は、解散のあとにある
INUは解散した。デビューアルバムからわずか3か月である。
理由については、20歳前後のメンバー全員が地元を離れて上京し活動を続けるのは無理があった、という説明がなされている。夢も破滅も何もない。単純に、生活が続かなかった。
INU解散後、彼が組んでは解散させたバンドの名前を並べる。
FUNA、人民オリンピックショウ、絶望一直線、至福団、愛慾バンド、天井天国、淫如上人&ミラクルヤング、北澤組、町田町蔵バンド。
9つである。
普通、バンドが1つ潰れたら、人は次の生き方を探す。この人は探さずに、また組んだ。組んでは潰し、また組んだ。それを9回やった。
その間の生計は、主に肉体労働のアルバイトと、ピンク映画から一般映画まで問わない映画出演で立てていたという。
1982年には石井聰亙監督の『爆裂都市 BURST CITY』に出演している。陣内孝則が初主演し、ザ・ルースターズの大江慎也、ザ・スターリンの遠藤ミチロウらが名を連ねた、あの映画だ。1995年には若松孝二監督の『エンドレス・ワルツ』で、阿部薫役として主演も務めている。
1992年、町田町蔵名義の詩集『供花』で詩人としてデビュー。1993年に詩とエッセイが混ざった『壊色』。
そして1996年、『くっすん大黒』で小説家としてデビュー。2000年、『きれぎれ』で第123回芥川賞受賞。
1981年に19歳でアルバムを出し、2000年に芥川賞。19年後である。
で、これのどこがパンクなのか
「芥川賞を獲ったパンクロッカー」という肩書きは、たいてい称賛として使われる。パンクなのに文学もできる、という驚きの文脈だ。
僕はその読み方を採らない。
INUの解散から芥川賞までの19年間、この人がやっていたことは一貫している。バンドを組んで、書いて、解散して、また書く。媒体がバンドから紙に変わっただけで、やっていることは変わっていない。
そもそも『メシ喰うな!』の11曲、全部の作詞を彼がやっている。作曲は他人に任せて、詞だけは一切渡さなかった。
つまりこの人は最初から書き手だった。バンドは、書いたものを鳴らすための装置だった。装置が壊れたので、9回作り直して、それでも足りなくて、最終的に紙に移った。
転向ではない。継続だ。
そして、ここがいちばんパンクだと思うのだが、この人は結局どこにも所属しきらなかった。関西パンクの英雄として祭り上げられることもなく、東京ロッカーズの一員に数えられることもなく、文壇に入っても純文学の作法に収まらない。
腐れおめこという名前を高校生でつけた男が、大学の文学部教授をやっている。この着地点の意味不明さこそが、彼の最大の武勇伝だと思う。
音源について、補足
INUの音源は少ない。
オリジナルアルバムは『メシ喰うな!』1枚のみ。CDは1985年7月25日、1993年12月21日、1998年8月26日と再発を重ねている。デジパック仕様の再発もあり、入手難易度は決して高くない。
もう1枚、『牛若丸なめとったらどついたるぞ!』というアルバムがある。こちらは1984年10月25日発売で、収録されているのは1979年3月25日のライブ音源だ。つまりデビュー前、メンバーがまだ流動的だった時期の記録である。アルケミー・レコードからのリリースで、CD化されていないとする資料もある。
長年、『メシ喰うな!』は「バンド本来の力が捉えられていない、満足のいかないアルバム」として、必ずしも高く評価されてこなかったという指摘もある。ライブのINUはもっと凶暴だった、という声だ。
その評価は、いまではほぼ逆転している。むしろスタジオで整理されたぶん、言葉が立って聞こえる。ライブの熱量では埋もれてしまう歌詞の構造が、この盤では全部見える。
結果的に、この1枚しか残らなかったのは幸運だったのかもしれない。
まとめ
町田康、旧名・町田町蔵は1962年1月15日生まれ、大阪府堺市出身。1977年に高校生で腐れおめこを結成し、1979年にINUへ発展。1981年3月1日、ジャパンレコーズから『メシ喰うな!』でメジャーデビュー。全11曲の作詞を担当し、作曲は北田昌宏が5曲、町田が4曲、西川成子が2曲を手掛けた。アルバムから3か月後に解散。
その後は9つのバンドを組んでは解散を繰り返し、映画に出て、1992年に詩人デビュー、1996年に小説家デビュー、2000年に芥川賞。
武勇伝としては、豚の内臓も血も出てこない。
だが、アルバム1枚で解散したバンドの音が45年経っても参照され続け、その歌詞を書いた人間が国内最高峰の文学賞を獲る、という経路のほうが、はるかに異常だ。
パンクは態度である、とよく言われる。だとしたら、20年かけて同じことをやり続けた人間ほどパンクなものはない。
聴いたことがない人は、A面の1曲目から通しで。11曲で40分に届かない。短い。
そして歌詞カードは、必ず開いてほしい。あそこに全部ある。
ではまた。

