上手い歌詞、というものがある。比喩が巧みで、構成が緻密で、思わず唸らされる言葉の技。だが、それとはまったく別の場所に、「人の人生を変えてしまう歌詞」というものが存在する。技術ではなく、もっと根源的な何かで、聴く者の魂を直接掴んで揺さぶる言葉だ。

bloodthirsty butchers(ブラッドサースティ・ブッチャーズ、通称ブッチャーズ)の吉村秀樹が書いた歌詞は、間違いなく後者だった。お世辞にも歌が上手いとは言えない。歌詞も洗練されているとは言い難い。それなのに、彼の言葉は、数えきれないミュージシャンとリスナーの背中を、強烈に焚きつけてきた。今日は、この稀有なソングライターの「歌詞論」で、一本書いてみたい。なぜ吉村秀樹の言葉は、こんなにも人の心に火をつけるのか。その秘密に迫りたい。

まず、bloodthirsty butchersとは?

bloodthirsty butchersは、1986年に札幌で、吉村秀樹(Vo/G)、射守矢雄(B)、佐野紀代己らによって結成されたロックバンド。1989年にドラムが小松正宏に交代し、長くこの3ピース編成が続く。後の2003年には、元NUMBER GIRLの田渕ひさ子(G)が加入し、4人編成となった。

彼らの音楽は、パンクロックをベースにしつつ、日本の風土が生んだ、まさに日本オリジナルなロックンロールだった。圧倒的な轟音による凄まじい音圧と、ケタ外れの独創性。他に類をみない音像を構築し、欧米のロックバンドと対等な位置で語られる、極めて希少なバンドだ。1991年にはFUGAZIとの共演を機に上京。海外でも評価を高め、ワシントン州オリンピアの名門レーベルKレコードから音源を出し、アメリカツアーまで敢行した。

そして特筆すべきは、彼らへのリスペクトを公言するアーティストの顔ぶれだ。前回の連載でも触れたCOWPERSやeastern youthといった北海道の盟友はもちろん、NUMBER GIRLの向井秀徳、くるりの岸田繁、俳優の浅野忠信、そして海外ではFUGAZI、Beck、レイジ・アゲインスト・ザ・マシーン、ダイナソーJr.のJ・マスシス——。国内外、ジャンルを問わず、これほど多くの一流が敬意を捧げるバンドは、そう多くない。彼らは「ミュージシャンに最も愛されたバンド」のひとつだった。

吉村秀樹の歌詞、その第一の特徴——「内省」と「口語」

では本題、吉村秀樹の歌詞に入ろう。その最大の特徴は、徹底した「内省」と、生々しい「口語」だ。

彼の言葉は、外に向かって何かを主張するというより、自分の内側を、ぼそぼそと、しかし切実に掘り下げていく。きれいに整えられた詩的なフレーズではない。日常の話し言葉そのままの、飾らない言葉。「どうなっているんだ」「記憶が交差する」——彼の歌い出しは、しばしばこんなふうに、独り言のような呟きから始まる。

ある楽曲では、繰り返し同じ言葉が反復される。これも吉村の歌詞の大きな特徴だ。同じフレーズを、何度も、何度も歌う。それは語彙の貧しさではない。むしろ逆だ。人間が本当に何かを強く思うとき、言葉は洗練されるどころか、同じ一語にしがみつくものだ。「もう一回」「まだ」「もっと」——そういう単純な言葉の反復が、技巧的なレトリックよりもはるかに強く、感情の切迫を伝えてくる。吉村は、人間の心が本当に動くときの「言葉にならなさ」を、そのまま歌詞にした人だった。

メンバーの射守矢雄は、吉村の歌詞についてこう語っている。あまり美化しすぎないほうがいい、そんなに美しいものじゃない、と。この突き放した言い方が、逆説的に本質を突いている。吉村の歌詞は、美しく仕立て上げられた作品ではない。剥き出しの、不格好な、生の感情の塊だ。だからこそ、嘘がない。だからこそ、刺さる。

第二の特徴——「技術を超える情熱」が言葉に宿る

吉村秀樹を語るとき、避けて通れないのが、その歌唱だ。彼は、お世辞にも歌が上手い人ではなかった。声を張り上げ、時に音程は不安定で、何を歌っているのか聞き取りづらいことすらある。実際、彼の代表作には歌詞カードが付いておらず、聞き取りに苦労したというファンの声も残っている。

だが、ここが肝心。その「上手くなさ」こそが、彼の歌詞を最強の武器にした。ある評者は、吉村のお世辞にも上手いといえない歌が、技術を超える情熱を持って訴えかけてくる、と書いている。これに尽きる。

考えてみてほしい。完璧な発声で、正確な音程で、聞き取りやすく歌われた言葉。それは美しいが、どこか「完成品」として、聴き手の外側で鳴っている。一方、吉村のように、声を振り絞り、つっかえながら、不器用に吐き出される言葉は、まるで聴き手自身の内側から漏れ出てきたかのように感じられる。歌詞と歌い方が、完全に一体化しているのだ。内省的な言葉を、内省的にしか歌えない声で歌う。この一致が、彼の歌詞に、紙の上では決して伝わらない説得力を与えていた。歌詞とは、文字だけのものではない。どう歌われるかまで含めて、初めて歌詞なのだと、吉村は教えてくれる。

「未完成」という曲が、人を焚きつけた

吉村の歌詞が持つ「焚きつける力」を、何より雄弁に物語るエピソードがある。「未完成」という曲だ。

くるりの岸田繁は、吉村の訃報に際し、こう綴っている。「未完成」が、一度挫けそうだった自分を焚きつけたのは随分前のことだ、と。なんやかんやでブッチャーズには励まされてばかりだった、と。一人のプロのミュージシャンが、心が折れかけたときに、吉村の歌に背中を押された。これは決して特別な話ではない。同じように「未完成」に、ブッチャーズの言葉に救われた人間が、どれほどいることか。

なぜ「未完成」という言葉が、人を焚きつけるのか。考えてみれば、これほど吉村秀樹を象徴する言葉もない。完璧でも、完成でもなく、「未完成」。まだ途中で、まだ足りなくて、それでも前に進もうとする状態。彼の歌は、いつも何かを成し遂げた人の凱歌ではなく、まだもがいている途中の人間の呻きだった。だからこそ、今まさにもがいている聴き手の隣に、ぴったりと寄り添えた。「お前だけじゃない、俺も未完成だ」——彼の歌詞は、そう言ってくれているように聞こえる。完成された言葉は人を感心させるが、未完成な言葉は、人を立ち上がらせる。

最高傑作『kocorono』——12ヶ月で心の移ろいを描く

吉村秀樹の歌詞世界が、最も完璧な形で結晶したのが、1996年発表の4thアルバム『kocorono』だ。今も日本のロックシーンに燦然と輝き続ける、邦楽オルタナティブの金字塔である。

このアルバムのコンセプトが、実に吉村らしい。収録曲のタイトルが、「2月」「3月」「4月」……「12月」と、月の名前で統一されているのだ。11の月を冠した楽曲で、季節の移ろいとともに変化していく心情を描く。大それた物語ではない。ただ、月日が流れ、季節が巡り、その中で揺れ動く一人の人間の心。北国の空を裂くような轟音ギターと、淀みなく澄み切ったアルペジオの上で、吉村の真っすぐな言葉が、蒼くセンチメンタルに響く。

中でも「7月」は、日本の宝とも評される名曲だ。淡々と歌い上げる吉村の声と、美しいアルペジオが、ノスタルジックな心象風景を描き出す。派手なサビも、劇的な展開もない。それなのに、聴き終えると胸の奥に温かいものと切ないものが同時に残る。日常の、なんでもない時間の移ろい。その中にある、かけがえのなさ。吉村の歌詞は、特別な事件ではなく、ありふれた日々の手触りを、これ以上ないほど切実に捉えていた。

そして、急逝——残された言葉

物語には、あまりに早い終わりが訪れる。2013年5月27日、吉村秀樹は急性心不全のため、46歳の若さでこの世を去った。

その訃報には、国内外の数えきれないミュージシャンから追悼の声が寄せられた。eastern youthは、音楽も生き様も一つ一つの言葉も強烈に焼き付いている、これからもずっと忘れることはない、と哀悼を捧げた。浅野忠信は、ギターの音の作り方を教わった、これからは天国からディストーションをかけてくれ、と綴った。彼がどれほど愛され、敬われていたかが、痛いほど伝わってくる。

胸を打つのは、彼が亡くなる直前まで、新作の完成に情熱を燃やしていたことだ。バンドはニューアルバムを完成させており、吉村はこの新作について、こんな言葉を残していた。俺の最高傑作な音像なのよ、つまり説明つかないの、早く早く、情熱、まだまだアルヨハードコア——と。この、文法も整っていない、ほとばしるような言葉づかい。これこそが吉村秀樹だ。最後の最後まで、彼は「未完成」のまま、前のめりに、情熱だけで突き進んでいた。完成を目指すのではなく、未完成のまま走り続けること。それが彼の生き様であり、歌詞そのものだった。

おすすめCD——吉村秀樹の言葉に出会う

『kocorono』(1996年)——まずはこの金字塔から

何を措いても、まずこれだ。2月から12月までの心の移ろいを描いた、邦楽オルタナの最高傑作。「7月」をはじめ、技術を超える情熱に貫かれた楽曲が並ぶ。吉村の歌詞が持つ内省と切実さ、そしてそれを歌う不器用な声の説得力を、まるごと体感できる。長く廃盤や配信のない時期もあった作品だが、20周年記念の『kocorono最終盤』には、吉村が「あれは俺の宝」と語った幻の未発表曲“kocorono”も収録された。歌詞カードを眺めながら、ぜひじっくりと。

『youth(青春)』(2013年)——吉村が遺した最後の言葉

吉村の死後、2013年11月にリリースされた通算13作目。彼が「俺の最高傑作」と語っていた、まさにその新作だ。彼の生前最後の言葉が刻まれた、特別な一枚。『kocorono』で吉村の世界に触れたら、その人生の終着点であるこのアルバムへ。タイトルが「青春」であることの意味を、噛みしめてほしい。

トリビュートアルバム——愛された証

吉村の死後、彼を慕う数多くのアーティストによるトリビュートアルバムも制作された。「ここには愛しかない」とまで評された一枚だ。彼の歌詞が、いかに多くの後続のミュージシャンに歌い継がれ、愛されているか。オリジナルと聴き比べると、吉村の言葉が持つ普遍的な強さが、より立体的に見えてくる。

まとめ——未完成のまま、焚きつけ続ける言葉

整理しよう。bloodthirsty butchersの吉村秀樹は、内省的で、口語的で、反復に満ちた、決して洗練されているとは言えない歌詞を書いた。だが、お世辞にも上手くない彼の歌声と一体になったその言葉は、技術を超える情熱で、数えきれない人の背中を焚きつけてきた。「未完成」という、もがく人間に寄り添う言葉。『kocorono』に描かれた、ありふれた日々の切実さ。そして最後まで前のめりだった、彼自身の生き様。

吉村秀樹の歌詞論を一言でまとめるなら、こうだ。彼の言葉は、完成された美しさで人を感心させるのではなく、未完成のままの切実さで、人を立ち上がらせた。完璧な詩は、額縁に入れて鑑賞できる。だが吉村の言葉は、鑑賞させてくれない。聴いた者の胸ぐらを掴んで、「お前も歩け」と引きずり起こしてくる。だからこそ、これほど多くのミュージシャンが、彼に焚きつけられ、彼を愛したのだ。

彼はもういない。だが、その言葉は、今も誰かの挫けそうな夜を焚きつけ続けている。もしあなたが今、何かに行き詰まっているなら、ぜひ『kocorono』を聴いてみてほしい。あの不器用な声が吐き出す未完成の言葉が、きっとあなたの背中を、不意に押してくれるはずだ。

ではまた。