カート・コバーンのネルシャツは、なぜ3,600万円になったのか ─ NIRVANAと「反抗を売る」という矛盾
1960年代にマンハッタン・インダストリーズという会社が作った、アクリルとモヘアとライクラの混紡カーディガン。当時の広告に載っていた価格は15ドル95セント。ボタンは5つのうち1つが取れていて、左ポケットの近くには煙草の焼け焦げと変色がある。要するに、古着屋の隅で500円で売られていても誰も驚かないタイプの一着だ。
これが2019年10月、ジュリアンズ・オークションで33万4,000ドル、当時のレートで約3,600万円で落札された。セーターの落札額としては史上最高記録である。同じオークションで、彼のフェンダー・ムスタングは34万ドルで売れた。ギターとセーターがほぼ同額。これはもう、楽器の値段ではない。
言うまでもなく、これはカート・コバーンが1993年11月18日のMTVアンプラグドで着ていたカーディガンだ。オークションハウスの代表は「洗わないことがとても重要だ」と語っている。染みも焼け焦げも、そのまま残っている。
今回は、この一着を軸にNIRVANAの話を書く。カリスマ性の正体と、死の扱われ方と、ネルシャツが商品になっていく過程について。先に結論を言っておくと、僕は「27歳で死んだから伝説になった」という語り口が、彼らに対する評価としては最悪の部類だと思っている。
まず、事実の側から積み上げる
NIRVANAは1987年、ワシントン州アバディーンで結成された。人口2万人に満たない林業の町だ。カート・コバーン(Vo/Gt)とクリスト・ノヴォセリック(Ba)が中心で、二人はアバディーン高校で出会い、メルヴィンズの練習場に出入りしながら親しくなっている。バンド名が決まる前は Skid Row、Pen Cap Chew、Bliss、Ted Ed Fred と名乗っていた時期があり、コバーン本人が「アングリー・サモアンズみたいな下品なパンクの名前じゃなくて、きれいで美しい名前が欲しかった」と語っている。涅槃を意味する語を選んだ理由が「きれいな名前だから」というのは、いま考えると出来すぎている。
ドラマーは何度も入れ替わった。アーロン・バークハート、デイル・クローヴァー、デイヴ・フォスター、チャド・チャニング、ダン・ピーターズ。1990年9月、メルヴィンズのバズ・オズボーンがデイヴ・グロールを紹介して、ようやく固定される。グロールは前年に解散したワシントンD.C.のハードコアバンド、スクリームのドラマーだった。
1989年6月15日、1stアルバム『Bleach』がサブ・ポップからリリースされる。シアトルのレシプロカル・レコーディングで、ジャック・エンディーノが約30時間で録った。請求額は606ドル17セント。バンドにその金はなく、支払ったのはジェイソン・エヴァーマンという男だ。アラスカの漁で稼いだ金を出し、ジャケットに写り、セカンドギターとしてクレジットされ、そして一音も弾いていない。ノヴォセリックの説明が完璧で、「彼にバンドの一員だと感じてほしかっただけ」。
この606ドルという数字は、いまや民間伝承の域に入っている。2009年の再発時には、サブ・ポップがその領収書をTシャツにプリントして売った。領収書を、Tシャツに。この時点でもう話は始まっているのだが、それは後で書く。
1991年9月24日、『Nevermind』。プロデュースはブッチ・ヴィグ、ミックスはアンディ・ウォレス。DGCへの移籍第一作である。ミックスエンジニアの候補リストを見たコバーンが上から順に全部「ノー」と言い、一番下にあった「アンディ・ウォレス/スレイヤー」だけを指して「こいつに電話しろ」と言った、というヴィグの証言が残っている。マドンナも手がけていた人物だが、リストにはスレイヤーとしか書かれていなかった。人選の基準が完全に「重さ」だったわけだ。
そして1992年1月、このアルバムはマイケル・ジャクソンの『Dangerous』を蹴落として全米1位になる。
1993年9月、3rd『In Utero』。プロデュースはスティーヴ・アルビニ、ミネソタ州キャノン・フォールズのパキダーム・スタジオで2月に録音。レーベルが音を嫌がり、「Heart-Shaped Box」「All Apologies」の2曲がスコット・リット(R.E.M.の仕事で知られる)によってリミックスされた。「Pennyroyal Tea」のリット・ミックスも作られたが、こちらは検閲版に収録される形になっている。ノヴォセリックはこのリミックスを「アルバムの荒々しい本編に入るためのゲートウェイ」と説明して擁護した。この言い方、政治家として悪くないと思う。実際いまの彼は政治活動家だ。
そしてカート・コバーンは1994年4月5日ごろに死去し、4月8日に発見された。27歳だった。
カリスマ性の正体は、悲劇ではなくコントである
ここが本題のひとつめ。
「カート・コバーンのカリスマ性」を語るとき、たいてい持ち出されるのは憂鬱、繊細さ、傷つきやすさ、世代の代弁者、といった語彙。ジャケットの伏し目がち、金髪の前髪、破れたジーンズ。悲劇の詩人パッケージである。
でも彼のライブ記録を見ていくと、そこにいるのはもっと意地の悪い、ユーモアの人だ。
1992年8月30日、レディング・フェスティバル。この直前、イギリスの音楽メディアには「コバーンは病気で出られない」「薬でボロボロだ」「生まれた子どもに障害がある」といった噂が飛び交っていた。当日、照明が落ちると、金髪のカツラをかぶり病院着を着た男が車椅子で押されて登場する。押していたのは音楽ジャーナリストのエヴェレット・トゥルーだ。ノヴォセリックが神妙な声で「彼はやりとげる、友人と家族の助けを借りて、彼はやりとげる」と観客に語りかける。コバーンはマイクにすがりつき、ベット・ミドラーの「The Rose」の歌い出しを弱々しく数フレーズだけ歌って、そのまま倒れる。
数秒後、立ち上がってギターを担ぎ、「Breed」を叩き込んだ。
これは自分の死の噂を先回りして笑い飛ばす行為であり、しかも噂を流した当のジャーナリストに車椅子を押させるという構成になっている。悲劇の詩人はこういうことをしない。これは皮肉屋の芸だ。ジェームス・ブラウンのマント芸の完全な換骨奪胎でもある。グロールは後年、この日を「素晴らしいショウになって、僕らを少しの間だけ癒してくれた」と振り返っている。
彼のカリスマ性は、この「自分に貼られたラベルを、そのラベルごと着て舞台に上がる」という身振りにある。ローリング・ストーンの表紙で「Corporate magazines still suck」と書かれたTシャツを着たのも同じ構造だ。1993年にはご丁寧に「Grunge is dead」と書かれたTシャツも着ている。
だから、彼を「時代に押しつぶされた繊細な人」として消費するのは、彼が一番嫌がるやり口だと思う。押しつぶされたのは事実かもしれないが、押しつぶされる過程を彼自身が笑いに変換し続けたという事実の方を、僕は評価したい。
日本との接点は、意外なほどアンダーグラウンドにある
ここで日本の話を挟む。
コバーンが大阪のガールズバンド、少年ナイフの熱狂的なファンだったのは、それなりに知られている。ただ「好きだった」で終わる話ではない。1991年秋、まだ『Nevermind』が出る前のNIRVANAは、3週間のイギリスツアーのサポートアクトとして少年ナイフを指名している。当時マネジメントに関わっていた人物のもとに、コバーン本人から「少年ナイフにツアーをサポートしてほしい」という連絡が来た、というのが少年ナイフ側の証言だ。バンド側は当時、アーティスト写真を見て「ちょっと恐い雰囲気」だと思ったらしい。この温度差が最高すぎる。
1993年のUSツアーにも呼ばれている。スケート場やスタジアム規模の大きなツアーで、オープニングが少年ナイフ、次がザ・ブリーダーズ、トリがNIRVANA。そして、一部の日程では少年ナイフの代わりにBOREDOMSがオープニングを務めていた。大阪のポップ・パンクと大阪のジャンク・ノイズが、順番にアメリカのアリーナで前座をやっていた。
国内盤のレーベル担当者は当時のコバーンについて、少年ナイフがツアーバスに乗る際にメンバー3人が「どうぞ」と出迎えていた、という話を残している。アンダーグラウンドのバンドに対する敬意の払い方はきちんとしていた、という証言だ。一方でメインストリームのロックには容赦がなく、それは牙を剥いていたというより単に相手にしていなかった、とも語られている。
日本公演はたった1回、4本だけである。1992年2月14日の大阪国際交流センターを皮切りに、16日の名古屋クラブクアトロ、17日のクラブチッタ川崎、19日の中野サンプラザ。この日程は公式資料ではなくファンサイトやブートレグの記録から広く共有されているものなので、細部の裏取りには限界があることは明記しておく。
そのうえで、当時クラブチッタ川崎を観たという人物の回想記事に、こういう記述がある。チケット代は5,500円、キャパは500人くらい、そして1週間前までチケットが残っていた。会場でのコバーンはパジャマみたいな格好で、曲は大体全部同じに聞こえて、最後がSmells Like Teen Spiritで、フィードバックを鳴らしっぱなしにしたまま去っていった。
この「1週間前まで残っていた」という一行が、いろいろなことを説明している。伝説は事後的に作られる。当日そこにいた人にとっては、ただの外タレの箱ライブだったのだ。
死を「伝説の完成」として語るのをやめたい
三つめの話。ここは慎重に書く。
「27クラブ」という言い方がある。ブライアン・ジョーンズ、ジミ・ヘンドリックス、ジャニス・ジョプリン、ジム・モリソン、そしてカート・コバーン。後にはエイミー・ワインハウスも数えられる。27歳で死んだロックスターの一覧で、ネットではいまも定期的にバズる。
僕はこの枠組みが本当に嫌いだ。
理由は単純で、これは死を「作品の一部」として扱う語り口だからだ。27歳という数字に神秘性を持たせた瞬間、その死は物語の完成であり、キャリアの最終楽章であり、カリスマ性の証明になってしまう。そこで失われるのは、それが一人の人間の、避けられたかもしれない死だったという事実の方である。
コバーンは長く重い依存の問題を抱えていた。バンドのマネージャーだったダニー・ゴールドバーグは、死の直前に行われた最後のインタベンション(介入)について後年語っている。周囲の人間は普通に、彼を助けようとしていた。これは物語ではなく、うまくいかなかった治療の話だ。
そして、この死をロマンにすると、実務的に何が起きるか。ネルシャツが3,600万円になる。
ネルシャツが商品になるまでの、きれいすぎる20年
ここが結論部。
まず前提として、グランジのあの格好は思想ではない。太平洋岸北西部の寒くて雨の多い土地で、金のない若者が着るいちばん安い作業着がネルシャツとサーマルだった、というだけの話だ。アバディーンは林業の町である。ネルシャツはコスプレではなく実用品だった。
それが最初に商品化されたのは1992年11月3日である。マーク・ジェイコブスがペリー・エリスのために発表した1993年春夏コレクション。2ドルの古着のネルシャツはチェック柄のシルクになり、木こりのサーマルはカシミアになり、コバーンが着ていた花柄のワンピースはシフォンになった。クリスティ・タリントンがL7の「Pretend We’re Dead」で登場し、ケイト・モスとクリステン・マクメナミーがビーニーとチェックで締める。バックステージではソニック・ユースが「Sugar Kane」のMVを撮っていた。完璧な現場だ。
ウィメンズ・ウェア・デイリーはジェイコブスを「グランジの導師」と呼んだ。だがファッション業界の反発は激しく、翌年ミラノではスージー・メンケスが「Grunge is Ghastly」と刷ったバッジを配って回った。ニューヨーク・マガジンの見出しは「Grunge: 1992–1993, R.I.P.」。ジェイコブスは1993年1月にCFDAの年間デザイナー賞を獲った直後、ペリー・エリスを解雇される。
そして彼は、敬意の表明としてサンプルをコバーンとコートニー・ラヴに送った。ラヴが2010年に語ったところによれば、二人はそれを燃やした。「私たちはパンクだったから、ああいうのは好きじゃなかった」。
ここまでなら、まだきれいな話だ。反抗が商品化され、当事者がそれを焼いた。90年代らしい決着である。
2018年11月、マーク・ジェイコブスは自身のブランドから「Redux Grunge Collection 1993/2018」として、あのコレクションを26ルック丸ごと復刻した。そして同年12月28日、NIRVANAの法人であるNirvana LLCが、カリフォルニアの裁判所にマーク・ジェイコブス・インターナショナルを提訴する。争点は「Bootleg Redux Grunge」に使われたスマイリーフェイスだった。目がXではなくMとJになっている、あのマーク。
訴訟は6年続いた。ジェイコブス側は「そもそもコバーンがこのロゴを作ったという証明がない」と反訴し、2020年にはゲフィン・レコードの元アートディレクター、ロバート・フィッシャーが「1991年に自分が作った」と名乗り出て参加する。2023年12月、判事はフィッシャーが作者だった場合の著作権はゲフィンに帰属すると判断したが、実際にどちらが作ったのかについては判断を示さなかった。2024年7月、当事者は調停案を受け入れて和解した。条件は非公開。
1993年、コバーンとラヴは服を燃やした。2024年、バンドの法人と高級ブランドがロゴの権利を争って和解した。
この31年の距離が、この記事で一番言いたいことだ。
「反抗のアイコン」は、死ぬと権利になる。管理され、ライセンスされ、訴訟の対象になり、洗われないまま3,600万円で落札される。それは誰かが悪意でやったことではなく、遺族にも権利者にも生活があり、それ自体は責められない。ただ、構造としてそうなる、という話だ。
だから僕は、彼のカリスマ性を「死」に紐づけて語る言葉を、そろそろ一度手放したほうがいいと思っている。彼が本当にすごかったのは、606ドルで録った1枚から3年でチャートのトップに立ち、その頂点で自分に貼られたラベルを病院着とカツラで嘲笑してみせたところだ。そこには意志があった。死には意志の代わりに、ただ喪失がある。
いま渋谷や下北沢で見かけるNIRVANAのTシャツを着た10代に、「3曲言ってみろ」と絡むおじさんが定期的に湧く。あれもやめたほうがいい。あのバンドのロゴが、意味を知らないまま流通する状態というのは、彼らがサブ・ポップの領収書をTシャツにした時点ですでに始まっていた運命でもある。
聴いたことがない人は、『In Utero』から入ってほしい。アルビニの録音のまま、ヴォーカルが小さくて、部屋の響きがそのまま入っている、あの居心地の悪いアルバムから。あそこには売り物になる前の音がまだ残っている。
独断で並べる、4枚
『Bleach』(1989年、Sub Pop)── 6.5点。606ドルの荒々しさは本物だが、正直に言うと曲がまだ足りない。「About a Girl」の1曲だけが未来を先取りしていて、そこだけ異様に輝いている。コバーン自身が後年、この仕上がりを嫌っていたと語っている。歴史的資料としての価値と、聴取体験としての価値がここまで乖離した1stも珍しい。
『Nevermind』(1991年、DGC)── 8.5点。文句のつけようがない完成度で、だからこそ減点する。アンディ・ウォレスのミックスは美しすぎて、ときどきこれが本当にアバディーンから来た音なのか分からなくなる。バンド自身が後に「磨きすぎた」と感じていたのは、たぶん正しい。それでも「Territorial Pissings」の投げやりな暴力性がアルバムを救っている。
『In Utero』(1993年、DGC)── 9.5点。ここが最高到達点だ。アルビニの録音は、ドラムが部屋ごと鳴っていて、ヴォーカルが引っ込んでいて、聴き手に媚びる箇所がひとつもない。全米1位を獲ったアルバムの音として明らかに間違っており、その間違い方に一切の妥協がない。「Milk It」から「Pennyroyal Tea」への流れは、90年代のロックで一番痛い数分間だと思う。
『MTV Unplugged in New York』(1994年、DGC)── 9.0点。1993年11月18日、ニューヨークのソニー・スタジオ収録。コバーンはステージにスターゲイザー・リリーと黒い蝋燭とシャンデリアを置くよう指示し、プロデューサーのアレックス・コレッティが「葬式みたいに、ってこと?」と聞くと「そう、まさに葬式みたいに」と答えたという逸話が残っている。ザ・ヴァセリンズ、デヴィッド・ボウイ、ミート・パペッツ、リードベリーのカバーで構成の半分近くを埋める選曲そのものが、彼の音楽観の表明になっている。死の7か月後に発売され、全米初登場1位。作品としては満点に近いが、この盤が「遺書」として聴かれ続けている現状を含めて、僕は10点をつけられない。
そして、あのカーディガンはここで着られていた。15ドル95セントの服が、いまも洗われないまま、誰かの資産として保管されている。
ではまた。

