「ロックは反抗の音楽」という呪い、もう誰も信じてないだろ
8月のロッキン・ジャパン、メインステージ前。10万人が両手を上げて、サビでみんな揃ってジャンプしてる。MCで「みんな今日は最高の一日にしようね!」と叫び、観客が「いえー!」と返す。終演後、Tシャツとタオルを買い込んだ人たちが、整然と並んで帰路につく。
——これが、2026年の「ロック」の現場。
で、同じ年の1月、グラミー賞を主催する米レコーディングアカデミーが、その年のトレンド予測でこう書いた。
> 「ロック・ミュージックが猛烈なカムバックを果たすように感じられる。ロック・アーティストの最新の波は、権力に真実を語り、革命と反乱のサウンドにチャンネルを合わせ、不安定さを増す世界における抵抗の声として、このジャンルの役割を取り戻そうとしている」
これ、読んでて笑った。何が笑えるかというと、整然と並んでロッキンから帰る現場と、「権力に真実を語る」「革命と反乱」というテキストのギャップが、もはや漫画レベルだった。
しかもこのテキストを書いたのが、グラミー賞という、ロックの権威の頂点にいる組織。
権威から「次の流行」として推奨される反抗。この時点で構造的に終わってんだよ。反抗ってのは、推奨される側じゃなくて、する側だろ。
「ロックは反抗の音楽という呪い」が、なぜもう誰にも信じられてないのか、それでも誰がこの呪いを延命させてるのか、という話をしたい。具体的なバンド名、具体的な音、具体的な歴史を絡めて。
「邦ロック」はとっくに「ファッションタグ」になってる
「邦ロック」という言葉、もはや音楽ジャンルじゃなくて、ファッション・ライフスタイルのタグだ。
ロッキン・ジャパン、カウントダウン・ジャパン、JAPAN JAM——これらの大型フェスに出演してる、ある種の音像を持つバンド群を便宜的にひとくくりで指す業界用語に近い。サビでみんなで腕を上げて、ジャンプして、コール&レスポンスがあって、終演後にハイタッチして帰路につく。
反抗じゃない。肯定と団結の音楽。
これ、別に揶揄じゃなくて、ジャンルの社会的役割が完全に変わったってことを言ってる。ロッキンに10万人集まる現場で、本気で「くたばれ社会」とか叫んでる奴いない。みんな「揃ってジャンプしようね」って言われて、素直に揃ってジャンプしてる。
ビルボードのデータ提供元Luminateの調査によれば、米国でも音楽アルバム市場シェアでロックは22.3%(2位)を維持してる。決して死んでない。むしろ普通に主流の一画にいる。
主流にいるものは、定義上、反抗じゃない。これは論理の問題。
ユニクロでセックス・ピストルズのTシャツが売られ、無印良品で流れるBGMにシューゲイザーが混ざってる時代に、「ロック=反抗」と言い続けるのは、「コンビニ=個人商店の敵」と言い続けるくらい、現実認識として遅れてる。
70-80年代の本物の反抗ロックを、いま聴き直す
ここでちょっと歴史を遡る必要がある。
「ロックは反抗の音楽」というナラティブにギリギリ説得力があった最後の時代は、70年代末〜80年代初頭の日本パンク/ポストパンクシーンだった。
関西のNO WAVEシーンを牽引した「SS」——「ラモーンズをヘタクソにして3倍速にした」とすら評される世界最速ハードコアパンクで、79年のライブ音源は録音状態を含めて伝説化してる。聴くと普通に意味不明な勢い。何かを破壊したくて鳴らしてるのが、音圧の暴力性だけで伝わってくる。
町田町蔵(現・小説家の町田康)率いる「INU」の名盤『メシ喰うな』。タイトルからしてカウンター。歌詞は社会への嫌悪で満ちていて、サウンドは性急なポストパンク。
Phewが在籍した「アーントサリー」は1979年にVanity Recordsから独創的なポストパンクをリリース、後に米Mesh-Keyから正規リイシューされて世界的に再評価された。Phewのボーカルは、いま聴いても異物感がある。普通に怖い。
関東に目を移せば「裸のラリーズ」——マイブラのケヴィン・シールズがギタースタイルに影響を受けたという説まである、伝説の轟音バンド。ステージでは延々と轟音のフィードバックを鳴らし、水谷孝のボーカルは霧のかなたから聞こえる。あれは「歌」というより、ある種の儀式だった。
そして、インディーズという仕組み自体が反抗の媒体だった時代。Vanity Records、ナゴムレコード(ケラ=有頂天、筋肉少女帯らが在籍)、トランスレコード——これらのレーベルは、メジャーが拾わない/拾えない音楽を物理メディアで世に出すための、社会経済的な抵抗の装置として機能してた。
この人たち、本当にカウンターだった。社会のメインストリームから完全に離脱した場所で鳴らされてた音。
そこには「反抗」という言葉に値する、確かな身体性があった。
「インディーズ=反抗」の構造が消えた瞬間
ところが、この「インディーズ=反抗」という記号が、2010年代以降に急速に薄まる。
理由は明快で、TuneCoreやBelieveみたいなディストリビューターを通じて、誰でもSpotifyに楽曲を載せられる時代になったから。
経産省の音楽産業データによれば、ストリーミング市場ではBelieve(TuneCoreを配下に持つデジタル音楽事業者)が5%程度のシェアを持ち、その他インディーズのシェアが2015年から拡大しつつある。つまり、インディーズはメインストリームの流通網に普通に乗ってる。
下北沢のライブハウスで音源CD-Rを手売りしてた20年前と違って、いまの宇都宮の「ささくれ」(オルタナ/シューゲイザー、楽曲全体に切望感や死の匂いが漂う)も、岡山の「揺れるは幽霊」(2023年結成、4人組シューゲイザー)も、滋賀の「揺らぎ」も、全員Spotifyに普通にいる。
これ、別に悪い変化じゃない。音楽が誰でも世界中の誰にでも届けられるというのは、純粋に良いことだ。でも同時に、「インディー=反抗の媒体」という80年代的なナラティブからは、インディーが解放されたってことでもある。
いまのインディーは、反抗じゃない。
じゃあ何かというと——
現代の日本のインディーが鳴らしてるのは、「内省」と「轟音」だ
ここが核心。
宇都宮の「ささくれ」については「手数の多い展開と異常なまでに尖った轟音の音作り。楽曲全体に漂う切望感や死の匂い」と評される。岡山の「揺れるは幽霊」は「苛立っていた心も彼らの楽曲を聴くと自然と落ち着いていく、まるでマイナスイオンのような音楽」。
3人組インディーロック「downt」は繊細さと力強さの同居、「雪国」の『pothos』は第17回CDショップ大賞2025の関東ブロック賞を獲得した、繊細なギターアルペジオと轟音の交錯。
東京の「どうめき」(2023年結成、サイケデリックなオルタナ)、東京の「Pulplant」(粗くも激しいバンドの生感)、「Lala」——これらのバンドが鳴らしてる音、どこにも「権力に真実を語る」とか書いてない。
代わりにあるのは、孤独、内省、ささやかな希望、夜の静けさ、消えゆくものへの寂しさ。
具体的に書こう。「揺れるは幽霊」の楽曲を夜中にイヤホンで聴くと、轟音のなかに包まれるけど、それは怒りの轟音じゃない。「どこにも行けない自分の隣に、誰かが座ってくれた」みたいな轟音。「downt」の楽曲は、繊細なアルペジオと爆発的なバーストが交互に来て、聴く者の感情の起伏を物理的に再現する。
これ、轟音を反抗じゃなくて「居場所」として使ってる。
70年代の「轟音=怒り」の方程式から、2020年代の「轟音=抱擁」の方程式へ。同じ音圧でも、社会的な機能が完全に変わってる。
「現代のロックが牙を抜かれた」みたいな保守的な嘆きじゃなくて、そもそも「反抗」というモードが必要とされなくなったってことだと思う。
なぜ現代に「反抗のロック」が必要じゃないのか
ここ、ちょっと真面目に分析したい。
70〜80年代のパンクが反抗できたのは、敵が見えやすかったから。冷戦、保守的な家父長制、腐敗した既得権益、サッチャー、レーガン、中曽根——反抗対象が固有名詞で指せた。デモのプラカードに名前が書けた。
ところが現代の若者が直面してる「生きづらさ」は、敵の顔が見えない。
ブラックボックス化したアルゴリズム、SNSの相互監視、終わらない比較、見通しの立たない経済、ぼんやりした不安、孤独、自己嫌悪——これらは「権力に真実を語る」ことで解決しない。Spotifyのアルゴリズムにマイクを向けて「不当だ!」と叫んでも、相手は無言で次のレコメンドを返してくるだけだ。
だから現代の音楽は、「敵を罵倒する反抗ロック」じゃなくて、「敵不明の不安に寄り添う轟音」を選んだ。揺れるは幽霊や雪国の音は、外に向けて拳を振るんじゃなくて、内側にうずくまる人の隣に座る音楽だ。
これ、反抗より高度な機能だと、僕は思う。
罵倒は敵がいないと成立しない。でも、敵がいない不安に寄り添うのは、もっと繊細な技術が要る。轟音の音圧設計、歌詞の余白、ライブでの空間の作り方——全部、新しいスキルセット。
ロックは「牙を抜かれた」んじゃない。「より複雑な仕事を引き受けた」だけ。
それでも「反抗のロック」を売り続ける、業界の構造
ここからが本記事の核心。
「ロック=反抗」というナラティブが完全に死なないのは、業界側がそれを延命させ続けてるから。
冒頭のグラミー賞のコメントもそうだし、ロック雑誌のレビュー文体もそう。「怒り」「鬱屈」「社会への異議申し立て」「抵抗のサウンド」——こういう語彙が、いまだに新譜レビューに大量に投入される。
なんでこの語彙が生き残ってるか。
評論家側の「青春の物差し」が、そこで止まってるから。
70年代パンクや80年代オルタナで音楽に目覚めた世代が、いまも音楽メディアの編集権を握ってる。彼らにとってロックは「反抗の音楽でなければならない」、なぜならそれが彼らの青春の定義だったから。
だから「今のロックは反抗してない、ぬるい」という嘆きが、いまだに音楽メディアに繰り返し書かれる。でも、その嘆きを発してる人が懐かしんでるのは、たぶん「反抗」じゃなくて「自分の青春」だ。「ロックが反抗じゃなくなった」と嘆いてるんじゃなくて、「自分が若くなくなった」と嘆いてる。それを音楽の話にすり替えてるだけ。
しかもこのナラティブを内面化してると、実害がある。新人インディーバンドが「内省の轟音」を鳴らしてるのに、評論家が「もっと怒れ」「もっと社会と戦え」みたいな指導を始める。これ、ノイズでしかない。新人にとっては余計な型にはめられるストレスでしかない。
リスナー側、特に20代〜30代前半は、もうこのナラティブを内面化してない。彼らは普通に「揺らぎ」を聴いて落ち着いて、「downt」を聴いて泣いて、「Lala」を聴いて朝まで起きてる。「反抗してるか」を音楽の評価軸にしてない。
呪いを内面化してるのは、もうリスナーじゃなくて、評論家側と業界の重鎮だけだ。
結論:呪いを解いて、新しい言葉で語ろう
整理する。「ロック=反抗」という呪いが死んだ理由はこう。
- 構造:ロックは普通に主流に居る。主流のものは定義上、反抗じゃない。
- 歴史:70-80年代の本物の反抗パンク(SS、INU、アーントサリー、裸のラリーズ)が成立してたのは、当時の社会構造ゆえ。同じ構造はもうない。
- インディーの解放:Spotify時代に「インディー=反抗の媒体」という記号が薄まり、インディーは「個人の声を届けるためのフラットな器」になった。
- 敵の不可視化:現代の若者が直面する不安は、権力闘争では解決しない。だから音楽は「内省と轟音」を選んだ。
- 業界の延命:それでも「反抗のロック」というナラティブが死なないのは、評論家側の青春の物差しがそこで止まってるから。
じゃあ、いまのロックは何の音楽なのか。
僕の答えは、「孤独に居場所を作る音楽」。
雪国のアルペジオが、夜中にイヤホンで聴く一人の時間に居場所を作る。kurayamisakaの男女ツインボーカルが、誰かと一緒にいるけど一人な感覚に居場所を作る。揺れるは幽霊の轟音が、苛立った心に居場所を作る。
反抗じゃなくて、安息。
それは別に弱いことでも、ぬるいことでもない。敵が見えにくい時代に、それでも生きる場所を音で作る——それは、反抗より静かで、たぶん難しい仕事だ。
罵倒する音楽はわかりやすい。寄り添う音楽は、わかりにくい。だからこそ、評価する側の言葉も新しくならないといけない。
「ロックは反抗の音楽」という呪いを、そろそろ手放そう。あれは70年代末の特定の社会条件下で成立した、歴史的な記号にすぎない。
代わりに、いま手元で鳴ってる音を、今の言葉で語る。
「この曲のアルペジオの隙間に、僕の隙間が重なる」とか、「この轟音は怒りじゃなくて諦めの裏側にある優しさだ」とか、「この男女ツインボーカルは対話じゃなくて並走だ」とか——古い「反抗」の語彙では拾えない感触を、新しい言葉で書く。
それが2026年の音楽の聴き方だと、僕は思う。
ロックは、反抗をやめた。代わりに、もっと難しい仕事を始めた。
ではまた。

