SpotifyもApple MusicもYouTube Musicも、月1000円ちょっとで何千万曲が聴き放題。ストリーミングが完全に「当たり前」になった今、音楽を物理的に「所有する」という行為の意味は、根本から問い直されている。

それでも——CDを買い続ける人たちがいる。

発売日にタワーレコードへ足を運び、レコードショップのワゴンを丁寧に漁り、手提げ袋いっぱいのCDを抱えて帰宅する。そういう人たちが、2026年のいまも確かに存在している。

「なんでわざわざCDを?」と聞かれるたびに、彼らはちょっと困ったように笑う。うまく言語化できないけれど、でも絶対にやめられない——そんな感覚を持っている人が多い。

この記事では、その「うまく言語化できない何か」を、できるだけ丁寧に言葉にしてみたいと思う。

「音楽を聴く」と「音楽を持つ」は、まったく別の行為だ

CD購入者たちと話していると、ほぼ全員が口にする言葉がある。

「サブスクで聴くのと、CDを買うのは、目的がそもそも違うんですよ」

これは本当に核心をついた言葉だと思う。サブスクは「音楽を聴く」ためのサービスだ。でもCDを買うという行為には、「音楽を聴く」以上の体験が折り重なっている。

好きなアーティストの新譜を手に取った瞬間を思い出してほしい。ケースを開け、ブックレットをめくり、歌詞を目で追いながら写真を眺める。プロデューサーは誰か、どのスタジオで録音されたのか、コーラスには誰が参加しているのか——そういう情報をひとつひとつ「発見」していく時間がある。

Spotifyのアプリ画面では、絶対に再現できない体験だ。

さらに言えば、棚に並んだCDを眺めながら「今夜はこれにしよう」と選ぶ瞬間の、あの静かな高揚感。ジャケットの質感、帯の文字、ケースの重み——すべてが「選ぶ体験」を豊かにする。音楽をコレクションする行為は、本棚を整えたり切手を集めたりする喜びに近い。それ自体が、ひとつの完結した趣味として成立しているのだ。

「サブスクで聴けない音楽」が、まだたくさんある

CD購入を続けるもうひとつの現実的な理由として、意外と語られないのがこれだ。

すべての音楽がサブスクで聴けるわけではない。インディーズバンドの自主制作盤、廃盤になったマイナー作品、ライブ会場限定のCD、同人音楽、一部の権利処理が複雑なアニメ楽曲や旧ジャニーズ系アーティストの作品——これらはストリーミングサービスには存在しない。

「好きなバンドのファーストアルバムがどこにも配信されてなくて、中古で探し回ってやっと手に入れた」という経験は、音楽ファンなら一度はあるだろう。そしてそのCDを手に入れた瞬間の達成感は、プレイリストに曲を追加するときの感覚とは、まるで次元が違う。

それだけじゃない。サブスクの楽曲は、ある日突然「消える」ことがある。配信契約の終了、権利関係のトラブル、レーベルの方針変更——さまざまな理由で、昨日まで聴けていた曲が今日聴けなくなる。実際に経験した人なら、あの喪失感はわかるはずだ。

「サブスクはレンタルに近い感覚。CDは買い切り」——この言葉が示すように、物理的に手元にある限り10年後も20年後も再生できるという安心感は、月額サービスには代替できない価値だ。

“好きなアーティストを直接支援したい”という純粋な気持ち

CDを買い続ける人たちが、もうひとつ強く口にするのが「お金の流れ」への意識だ。

ストリーミングサービスの再生ロイヤリティは、1再生あたりおよそ数十銭〜数円程度と言われている。アーティストへの還元額として考えると、これは驚くほど少ない。特に活動規模の小さなインディーズアーティストにとって、サブスクだけで生計を立てることはほぼ不可能に近いのが現実だ。

「好きなアーティストには、ちゃんとお金を渡したい」

CDを1枚買う行為は、音楽を聴くための手段であると同時に、アーティストへの直接的な支援でもある。物販でTシャツを買う感覚に近い——いや、むしろそれより純粋な経済的貢献と言えるかもしれない。

コロナ禍でライブが軒並み中止になった時期、「ライブに行けないならせめてCDを買おう」という動きが音楽ファンの間で広がった。あの経験は、アーティストの収益構造の脆弱さをリアルに可視化した。その意識はコロナ後も根強く残っており、「音楽で食っていける人を少しでも増やしたい」という感覚がCD購入の動機に含まれているケースは、決して少なくない。

推し活の感覚に近いのかもしれない。でもそれは、アーティストの音楽に本気で向き合っているからこその行動だ。

CDプレーヤーを「セットする」という、音楽との向き合い方

「CDの方が音がいい」——この話は、オーディオ好きの間では今も根強い議論テーマだ。

技術的には、CDは44.1kHz/16bitのロスレス音源。一方でサブスクは多くの場合圧縮音源(サービスによってはロスレス配信にも対応しているが)であり、再生環境によっては音質差が出ることもある。ただ正直に言えば、スマホのイヤホンで聴く分には大半の人が差を感じられないのも事実で、「音質」論はそれなりのオーディオ環境を持つ人向けの話ではある。

それよりも、CDを愛する人たちが語るのは「CDプレーヤーで再生する行為そのもの」の価値だ。

ディスクをケースから取り出し、トレイにセットし、蓋を閉める。ディスクが回転を始め、数秒後に音楽が流れ出す——その一連の所作が、音楽を聴くための「儀式」になっている。

スマホをタップして0.1秒後に音楽が始まるのとは違う、意識的なひと呼吸。その間に「よし、聴くぞ」という気持ちが整う。ながら聴きではなく、音楽と正面から向き合うための助走区間、とでも言えばいいだろうか。この感覚を大切にしている人にとって、CDプレーヤーは絶対に手放せないものになっている。

ジャケットは「作品の一部」である

デジタル化によって静かに失われていくもの——それがジャケットアートとしての体験だ。

かつてレコードは30センチ四方のジャケットに、アーティストの世界観のすべてを詰め込んでいた。CDになって12センチに縮小されたが、それでもデザイナーやフォトグラファー、アートディレクターの仕事が凝縮された一枚の印刷物として、確かな存在感を持っている。

スマホ画面のサムネイル画像では絶対に伝わらない、紙の質感とコーティングの手触り。特殊加工の光沢、折り畳まれたブックレットの重さ——これらは間違いなく、その音楽作品を構成する要素のひとつだ。

「ジャケ買い」という文化がある。中身も知らずにビジュアルだけで買うこの行為は、完全にアナログ時代の産物のように思われているが、いまもその習慣を持つ人は一定数いる。「ジャケに惹かれて買ったら大当たりだった」という体験の積み重ねが、音楽との新しい出会い方を生んでいる。アルゴリズムによるレコメンドとは違う、人間的な偶然性の喜びがそこにはある。

それは「不合理な選択」じゃなく、ひとつの美学だ

結局のところ、サブスク全盛期にCDを買い続ける人たちは、効率を求めていない。

合理的に考えれば、サブスクで十分だ。場所を取らず、重くもなく、どこでもすぐ聴ける。CDは客観的に見て「不合理」な選択肢だ。そのことは、買っている本人たちも十分わかっている。

でも——だからこそ、CDを買うのだと思う。

不合理であることを承知の上で選ぶ。その行為が、ある種のアイデンティティになっている。「自分は音楽をこういうやり方で楽しむ人間だ」という、静かな宣言。CDの棚は、その人の音楽的な歩みであり、趣味の履歴であり、美学の結晶だ。

サブスクが普及してから、音楽は確実に「消費されやすく」なった。プレイリストを流しながら別の作業をして、気づいたら全然知らない曲になっていた——そんな体験が、いまや珍しくない。

CDを買う人たちは、そこへの静かな抵抗をしているのかもしれない。一枚のディスクと向き合い、ブックレットを開き、全曲を通して聴く。その能動的な姿勢を手放さないために、物理的なメディアを選び続けている。

「時代遅れ」という言葉は、まったく的外れだ

CDを買うことを「時代遅れ」と言う人がいる。でも、それは本質を見誤っている。

レコードは「CDに淘汰される」と言われた時代があった。でも今もビニール盤を愛するリスナーは世界中にいる。フィルムカメラは「デジタルに勝てない」と言われながら、若い世代にも熱狂的なファンが増えている。

物理メディアに宿る体験の価値は、利便性とはまったく別の軸に存在している。その価値を知っている人たちは、時代がどう変わっても、自分のやり方で音楽と向き合い続けるだろう。

CDを買い続ける人たちの本音は、実にシンプルだ。

「好きな音楽を、好きなやり方でちゃんと楽しみたい」——ただ、それだけのことだ。

その「ただそれだけ」の中に、音楽への深い愛情と、丁寧に生きることへの意志が、静かに宿っている気がする。

ではまた。